◇シルフィーユ通信◇ 〜Sylphille〜 2015年10月号 浅野太志

メルマガ「シルフィーユ通信」〜Sylphille〜 2015年10月号 No.00015

ふと気がつけば、もう10月…
「天高く、馬肥ゆる秋」と言いますが、暑さもいつしか収まって、本当に過ごしやすくなりました。最近、思いのほか時間がたつのが速くて、戸惑っています。
気がつけば、もう間もなく、マイナンバーも送られてくる頃ですし…
今回のメルマガのナンバーは、No.00015なんですけど、こうして1ヶ月に1回おきに僕が死ぬまで発行したとしても、あと500回ぐらいだから、どう考えても、ナンバーは5ケタもいらなかったよな… なんて感じている、今日この頃です(笑)

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メルマガ・シルフィーユ 2015年10月号 INDEX

・粋に生きると、人生は楽しい
・TAROTメッセ−ジ 第15回 「節制からのメッセージ」
・お知らせ

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粋(いき)に生きると、人生は楽しい

さっき、薄着のままで、なにも羽織らないで外に出てみたら、ヤケに肌寒く感じました。
もう、冬の気配すら感じます。

そういえば「姓名判断の鑑定は、秋口に始めます」とか言っておきながら、まだ準備ができていません。
これはどうしたものかと頭を抱えていますが、約束は約束…、もうそろそろ見切り発車で始めるつもりです(笑)

何だか今、いろんな物事が猛スピードで目の前を通過している気がします。

「四柱推命講座・中級編」が始まって、「FUTOSHI会」も無事終了… 次から次へとやる事をこなしてはいるものの、書の練習とか、タロット本の翻訳の仕事とか、ここの所少し滞っています。
目の前の事に追われるだけで、何も手つかずのまま、時間だけが過ぎていってしまうのが、本当にもどかしくて…

にもかかわらず、誰かからせかされないと、ついついソファーに腰掛けたままボンヤリと過ごしてしまいます。
自分がやりたい事を大方やり遂げたせいか、最近気が緩んでいるのを感じます。

とはいえ、今でこそ、こんな風にのんびりと構えていますが、若い頃は(今も若いつもりではありますが…)いつもガツガツしていて、「欲しいと思うものは、何が何でも手に入れる」とか、随分とわがままな事を平気で口にしたり、身勝手な行動をとっていたものでした。

まあ「若気の至り」というやつですね。振り返ると、恥ずかしいです。

負けず嫌いだったから、本当あきらめも悪かったです。

自分の夢に対しても、仕事の目標に対しても、恋愛に対しても…

恋愛なんて、一つ間違えばストーカーになりかねないような所も持っていましたね。
今はもう違いますけど(笑)

そんな性格だったから、周りの人を随分と振り回してきた気がします。
だから、今みたいに信頼できる人間関係を築けなかったし、自分の欲で目が曇って、人の心を見抜く事も出来なかったから、随分と人に騙された事もありました。

その負けず嫌いが幸いして、ここまでたどり着けたと言えなくもないけど、随分と要領の悪い人生を歩んできたものです。
振り返ってみれば、少し懐かしくもありますね。

今でこそ、こんなにフワフワして生きていますけど、あの頃の僕は、本当に頭が固くて、融通の利かない人間でした。
なんでも自分の持っている物差しでしか、物を見る事ができなかったせいでもあるのですけど、あの頃は、常に「自分」というものに囚われ過ぎていたような気がします。

自分勝手で負けず嫌いな割には、人からどんな風に思われているのかをひどく気にするような所もありましたね。
当時はそれで、バランスが取れていたのかもしれませんけど…

人は誰でも多かれ少なかれ、自分の事に囚われて生きる生き物ですけど、そういう部分が多ければ多いほど、自分の魅力が出なくなって、粋(いき)じゃなくなっちゃうのかも知れない…

例えば、人からどんな風に思われているのかが、常に気になるのは、人の性(さが)ですし、ある意味それも大切な事だとも思うのですが、そればっかりに囚われ過ぎると、かえって人の気持ちが感じられなくなってしまう事もありますから、本当に難しいです。

自分というものに囚われないで、その上で、人の気持ちを感じられたのなら、それが一番いいのでしょうけど…

芸術作品を創作する際の心構えも、ひょっとすると、それと同じかも知れません。

芸術家に、こだわりというものがなければ、人の心を感動させる、良い芸術作品を作る事はできません。

とはいえ、「この作品を見た人から、自分はどう評価されるかな」みたいなこだわりは、かえってマイナスになるでしょう。
ましてや「この作品で、賞を取ってやろう」とか「この作品で大儲けしたい」みたいな野望は、芸術作品を創作する上では雑念にしかなりませんし、そういう衝動だけで不純な気持ちのまま作品を作ったのなら、なんだか不自然で気持ち悪い、作為的な作品になってしまう気がするんですね。

中には、そういう何かをねらったような作品が好きだ、という人もいるかも知れませんけど、そういう作品って、きっと粋じゃないです(笑)

こだわりは大切ですけど、そのこだわりの中から、自分の損得にからむようなあんまり粋じゃないものを、上手に外さないといけないかなって気がしますね。
芸術作品だけじゃなくて、人生を粋に生きようと思ったら、そういう事が大切なのかも知れません。

これからお話しするのは、あるお母様からお聞きした、息子さんのお話です。当時、中学生ぐらいで、すごく純粋で真面目な男の子でした。

随分と昔に聞いた話で、誰からお聞きしたのかも忘れてしまったのですが、話の内容だけは、今でもなぜか鮮烈に覚えているんですね。

ある朝、その男の子が同級生の仲良しの女の子と一緒に、一つのお布団の中で一緒に寝ていたんです。
別に変な事をしていた訳ではなくて、たまたま家で遊んでいて、夜遅くなって、その場のノリでそういう流れになっちゃったらしい…

男の子の部屋は、家のはなれにあったので、お母様もその事は知らなかったらしいです。

翌日の朝、そのクラスの担任の先生が、男の子を起こしに来たんです。
その日は、体育の朝練習かなんかで、いつもよりも早く学校に行く日だったのでしょう。

その先生は、家の近くに住んでいて、今までにも何度か、学校へ行く途中に家によって、男の子を起こしに来てくれていたそうです。だから、男の子がはなれの部屋で暮らしている事も、知っていたんですね。

担任の先生がいつものように男の子の部屋に入ると、同じ布団の中に同じクラスの女の子が寝ている…
きっと、かなりびっくりされた事と思います。

その担任の先生は、いきなりその男の子と女の子の頬(ほほ)を何度も何度も腫れるぐらいになぐりつけたという事でした。

先生からしたら、これは不純異性交遊だから、二度とこんな間違いが起こらないように、体罰で体に教え込んで更生しなければいけない、とでも思ったのでしょう。
とはいえ、二人は、ただ布団の中で一緒に寝ていただけで、何にもやましい事はしていなかったのですが…

その後、仲良しだった男の子と女の子はどうなったかと言うと、お互いにもう気まずくて目も合わせられなくなってしまったそうです。
そのお母様は、「なんか息子がすごくかわいそうに思えて…」と、おっしゃっていました。

このお話を聞いて、僕はいろいろと考えさせられました。

この担任の先生のその場の対応については、賛否両論あると思います。
まあこれ、戦時中とかでしたら、こういうのはありがちな、至極当然な話なのでしょうけど…

この担任の先生は、そういう意味で、真面目に自分の職務を全うしたのかも知れません。

とはいえ僕は、それにしたってこれは、あまりに無粋(ぶすい)過ぎるんじゃないかな… って気がするんですよね。
もちろん、僕の意見が必ずしも正しいとは限りませんけど…

これは、体罰はやっぱりいけないとか、そういう事が言いたいのではありません。
僕の通っていた中学校でも、わりと普通に体罰はありました。

修学旅行の時、女湯をのぞこうとした男子生徒数人が、引率の先生につかまって、思いっきり殴られた上、一晩中正座させられていたような事もありました。
僕は、これに関しては、まあ当然と言いますか、正しいジャッジだったんじゃないかなとか思うんですよ。

痴漢行為は犯罪ですし、将来人に迷惑を掛けるような大人にならないように、善悪の価値基準をきちんとわからせる上でも、多分これで良いと思います。

でも、さっきの男の子と女の子を、一緒の布団に入っていただけで何度も殴りつけるというのは、一体どうなんだろう… って感じるんですよね。

別に、女の子の両親から、捜索届けや苦情があった訳でもありませんし、二人とも、ただ眠くなったから、一緒に布団に入っていたというだけで、誰にも迷惑を掛けていません。

この担任の先生も多分、二人が本当に悪い事をやったと思って、殴った訳じゃないと思うんですね。

おそらくは、この状況に遭遇して、見て見ぬ振りをしていたら、自分の担任としての立場にけじめがつかなくなるとか、そういう考えがよぎったんじゃないかと思います。
ひょっとしたら、この状況を見て見ぬふりをした事を、誰かに見つかったなら、上役に叱られるかもしれないとか、先生としての経歴に傷がつくかもしれないとか、そんな風に、保身に走ったんじゃないかとも、勘繰りたくなります。

だって、この先生のやった行為、まるで粋じゃないから(笑)

僕がこの先生の状況にたったら、間違っても、二人を殴りつけるような無粋なまねはしないですね。
起こしてちゃんと理由を聞いて、「大人の世界じゃ誤解されるから、これからは一緒の布団で寝るのは、やめとけよ」って、教え諭す程度です。
この場合、それで十分だと思うし…

あとからその事が学校の上司に知れて、「担任の職務をきちんと果たしていない」とか誰かから責められたのなら、状況を説明して二人の子供を弁護した上で、それでもわかってもらえないのなら、自ら進んでその学校をクビになりますね。

確かに職がなくなったら、生活には困るかも知れないですけど、その方が粋な人生だと思うから、僕はそっちの人生の方がよっぽどいいです。
胸張って堂々と生きられるし…
まあ、僕自身、組織社会の中で生きる事は、相当に向いていないんだろうな… という自覚はありますけど(笑)

これに関しては、いろいろな意見があると思います。

まだ人生経験の少ない子供達が、間違って赤ちゃんなんかできちゃったら、大変な事になるし、子供達が将来不幸にならない為にも、男女の間違いが絶対に起こらないようにするのが、先生や親の務めだと、考える人もいるでしょう。

確かに、感情だけに流されて気の向くままに人生を歩んだなら、子供達が不幸になる事は目に見えていますから、人生の先輩として大人は、子供達にしっかりとアドバイスをする義務はあると思います。
とはいえ、最終的な事は、やっぱりその子自身が決める事だと思うんですね。

その決定が犯罪にかかわるようなとんでもないものではない限り、親や先生といえども、あまりに過剰に干渉したり口出しをするのも、どうかと思うんです。

それって、子を思う親の愛情というよりは、単に自分達の利害や損得を考えているだけのエゴなんじゃないかなって、僕は思うんですよ。

逆に、過剰に口出しもしない代わりに、冷たいようではあっても、子供達が自分で決断した結果、失敗したとしても、その責任は自分でとらせるべきです。
子供にはきちんと自立させるべきですし、それと同時に大人の方も、ちゃんと自立していないといけないと思う。

どちらにしても、誰かに依存したり、誰かを自分の思い通りにコントロールしようとすればするほど無理がくるし、人生は粋じゃなくなる…

粋な生き方というのは難しいけど、とにかく自分の利益とか、損得勘定なんかに囚われると、粋というものから程遠くなりますね。

もちろん、損得勘定なしには生きていけないのが、今の世の中ではありますが、人は、そういうつまらないものを目の当たりすると、何となくシラけて、興ざめしちゃうものです。

例えそういった事で、わずかばかりの目の前の利益を得られたとしても、それと引き換えに、もっと大切にしなければいけないはずの、人の心は離れていってしまうでしょう。

特に人生の中でも、恋愛というものに関しては、粋であるかどうかが、一つの決め手になるような気がします。
これは、あくまでも僕の個人的な意見だと思って、聞いて頂ければ嬉しいのですが(笑)

例えば、相手に自分のわがままな気持ちを押しつけて、その相手を自分の思い通りに操縦しようとする人は、決して粋じゃないし、相手にもいい迷惑だと思うんですよ。

もちろん、自分の意見を伝える為に、相手に提案するのは大切な事だと思うんですけど、それを相手に強要をしてはいけないと思うんですね。

これは、夫婦関係や、すでにつき合っている恋人同士にも言える事ですし、まだ交際に入る前の恋の駆け引きに関しても、言える事だと思います。

これは粋だな… と思うのは、損得なしで相手の為に何かをしてあげて、相手の心を惹きつけてしまうような、絶妙な恋の駆け引きですかね。
この時、「あなたの事を、心から大切にしています」みたいな気持ちまで伝わると、とっても素敵だと思う。

ところが、「自分の事を好きになってほしい」みたいな思惑まで一緒に伝わっちゃうと、いっぺんにダサくなります。
確かに、こういうのも可愛いと言えば可愛いんですけど、ちょっと粋じゃなくなっちゃうんですね(笑)

もちろん誰だってこういう気持ちはありますけど、それをなるべく気づかれないように、できる事なら一定時間の間、忘れたままでいられたなら、もう最高に粋だと思う…

結論を言うと、粋になる為の秘訣は、どんな時でもサラッとあきらめる淡白さなのかな、なんて思います。

相手のノリが悪かったら、さっとあきらめるいさぎよさと言うか、引きのあざやかさが、異性の心をくすぐったりするのかも知れません。

だから粋な恋愛をしようと思ったら、決して未練タラタラになったり、ストーカーみたいにはなってはいけないんですね。
時には過去の恋人から、「本当はあの時、もっと押してほしかったの…」なんて言われる事もあるかも知れませんけど、粋に決めようと思ったら、やっぱり前のめりは禁物です。
その延長線上で結婚したとしても、相手に頭が上がらなくなっている光景は、どうせ目に見えていますから(笑)

これは恋愛の話だけではなく、人生の全ての局面において言える事かも知れません。

自分の執着を捨てる事で、何でも、物事の本質が見えてきたりするものです。

頭の中の自分の観念で、「こうするべきだ、ああするべきだ」みたいにやっていると、独りよがりで無粋な事になってしまうけど、そういう執着を捨てて、あるがままに生きていると、きっとみんなが幸せになれる…
そして、お互いが本当に幸せになれるパートナーや、人生で組むべき相手も自然とわかるようになるはずです。

心の中に損得勘定や思惑をたくさん持っていると、同じようにそういうものをたくさん持っている相手が近づいてくるし、綺麗な心で過ごしていれば、やっぱり綺麗な心の人が近づいてきます。

だから、例え自分の思惑と多少違っていても、目の前の出会いや別れに、あんまり一喜一憂しないほうがいい…

「来るものは拒まず、去る者は追わず」
そうやって粋に生きていたら、きっと人生、これからすごく素敵な事があるんじゃないですかね。

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TAROTメッセ−ジ 第15回 「節制からのメッセージ」

「TAROTメッセ−ジ」は、ウェイト版の1枚1枚のカードを取り上げて、そのカードが発しているメッセージに耳を傾けてみようというコーナーです。
第15回目は、「節制」についてです。

節制の構図
http://www.asano-uranai.com/tarot.html#temperance

「節制」という言葉は、古代ギリシャにおける四枢要徳(賢明・正義・剛毅・節制)の一つで、元来このカードには、ぶどう酒を水でうすめている女性の姿が描かれていました。そして、それは「節約の大切さ」を意味していました。

ウェイト版の節制のカードには、大きな赤い羽根を広げた天使が、二つの水瓶を両手に持ち、その中の液体を移し替えている様子が描かれています。
この天使は、大天使ミカエルもしくは大天使ラファエルだとも言われています。

天使は、片方の足を水につけ、片方の足は地面の上にあります。水は潜在意識を、地面は現実世界を表し、この天使が人の無意識と現実を行き来できる存在である事を示しています。
そして、二つの異なる物質を混ぜ合わせる事によって、錬金術における魔術をとり行っているのです。
遠くかなたで光っている王冠は、その魔術が顕現(けんげん)した事を示しています。

アーサー・ウェイトがこの節制のカードに込めた真の意味は、グノーシスの世界観においての、死を超えて生きのびていく永遠の生命の神秘というものであり、高次が目覚める事で低次が死んでいくプロセスそのものの表現でもあります。

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「タロット講座・大アルカナ実践編」、「タロット講座・小アルカナ実践編」また、「四柱推命講座」は、随時募集を受け付けております。
ある程度参加者の方が集まった所で、日程を決めさせて頂くような形になります。
http://www.asano-uranai.com/form/_conferenceform_hope.html

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鑑定オフィス「シルフィーユ」への中野坂上駅からの道順はこちらです。
http://asanouranai.blog.fc2.com/blog-entry-995.html
皆様のお越しをお待ち申し上げております。

シルフィーユでの浅野太志の鑑定のご予約は、こちらまで…
http://esp07.dt-r.com/sylph/

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お気軽にご意見やお問い合わせを頂ければ、嬉しく思います。
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浅野太志の占い鑑定
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浅野太志の最新ブログ「浅野太志 やさしい風のように 〜心のつぶやき〜」
http://asano-uranai.com/blog/

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